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Idletalk vol.5
お庭でだらだら

絶版
フリペ史上初の「ヒマワリのタネ」付き。おまけにしても内容にしても、Idle史上に残る大好評の号だったが、その梱包作業はかなり大変で、プクワの姉貴二人をバイト採用して半分詰めて、さらに残り半分を大阪でタケムラアツオジョウの3人で半徹で詰めたりと手間がかかりすぎだった。
カメラトーク友の会の特徴でもあるメールや掲示板で原稿募集を開始した号でもあったりする。

DATA
フリーペーパーIdletalk第5号
1999年4月発行

Idletalk 05-1.pdf(1.2GB)

Idletalk 05-2.pdf(452k)

庭だらのススメ/藤垣アツ子

庭考/城森トモエ

未だ見ぬ収穫の日、適切な距離、虫の克服/タケムラナオヤ

カルタの木/モリオ

NO MUSIC NO LIFE/IRIE

みどりのゆびが、体内時計のネジをまく/AMIKO

あなたとお庭の素敵なお話

 庭ダラのスゝメ

text/フジガキアツコ

 植えもしないのに勝手に生えてくる木のことを、どこかの地方では「おろかばえ」というそうだ。おそらく「愚か生え」と書くのだろうが、人為を無視して勝手に生えてくる生命の過剰なまでの勢いを現す、とてもステキな言葉だと思う。そんなことを考えながら畳1.5枚分の狭いベランダにひしめく植物たちを見る。冬の朝、一瞬の日向である。

 私の一日は、このベランダの戸を開けるところから始まる。ひとつひとつの鉢の機嫌を見、水をやり、枝葉を整え、鉢の位置を変えてみたりする。昨日とたいして変わりのない草たちを眺めてはひとり悦に入る。園芸のコツは観察だ、という話はあながち嘘ではないのかもしれない。うちの草たちは元気だ。パセリや西洋葱などは伸びたそばから摘み、たまにその場で食べる。ついつい嬉しくなって、コーヒーとたばこをもってベランダに座り込む。葉の色やうつくしい産毛や新しく生えてきたつやつやの芽を眺めながらほくそ笑む。にやり。至福の時間である。毎朝こんな調子で1時間、ついついうっかり遅刻なんてこともしばしば。

 園芸は心の喜びです、なんて言うと何だかインチキヒーリングみたいだが、まあ実際そんなようなもんである。ただし草たちはそれほど私に依存しているわけではないようだ。しばらくほったらかしても、平気で生きている。たとえ萎れているのを発見して慌てても、水をやると1時間もすればむくむく元気になる。心はかけているつもりだが、それほど過保護に育てているわけではない。何せガンガン食べるし、凍える真冬に戸外に放置したりしてるのだから。しかしどんなに寒くたって、どんなに摘んだってにょきにょき生えてくる。強いなあ。おそらく彼らは私の一喜一憂やささやかな自己満足なぞ屁とも思っていないのだろう。ただただ旺盛に伸び、貪欲に増える。そういう意味で、園芸は喜びである。人間よりもはるかに強い存在のはじっこを拝借して一緒に暮らしているような気分だ。

 私の実家の庭はまるでジャングルだ。手入れもろくにしないから、生え放題、伸び放題。「おろか」どころの騒ぎではなく、本当にいろいろな植物が生えてくる。蔦が生い茂り、変な実や花や明らかにやばそうなキノコも生える。小さなころからそこでいろんな冒険をしてきた。虫や鳥やヘビに出会い、知恵を授かり、美しいものや醜いものを発見し、喜びや恐怖も知った。変な木の実や草を食べておなかを壊したこともあった。私にとってあの庭はまさに物語に出てくるふしぎの国だった。いつか、私が庭を持てたら、やっぱりそんな庭にしようと思う。

 ところでうちの狭いベランダの庭にも「おろかばえ」した芽が生えてくる。どこからか飛んでくるのか、はたまた種が最初から土に潜んでいたのか。なんの芽だろう。真っ黒い土の中からやたらすくすく伸びてきたあたらしい芽を見ていると、ただ抜いてしまうのは忍びない。だから「おろかばえ」した芽はそれ専用の鉢に植え替える。時には思いもかけなかった花がそこから咲くこともあるのだ。園芸ライフにはそんな小さなドキドキもあったりする。

 庭考

text/ジョウモリトモエ

庭。

 あれは一種の隠れ家みたいなものだと思う。隠すわけではないけれど、自然とプライベートなものになってしまう場所。そこにいたら、とにかくなんでもいい、心地いい。そこにいること自体が幸せ。それが庭というものなんだと思う。

 京都でのほほんと学生生活を送っていた頃、わたしはふたつの庭を持ちました。ひとつは、小さな小さな公園です。一見個人の駐車場かなにかと思わせるような狭い屋根つきの通りの奥に、突然それは現われます。私は、まずその在り方にやられました。時間の流れからぽつんととり残されたようにただただぽかーんと在るだけ。小さな空間にきゅっといろんなものが詰まっているのに、狭いところからやっと抜け出た時に得られるような解放感。安定した場所とでも言えばいいのでしょうか。

 冬、葉がすっかり落ちてしまったあとの殺風景な姿も、新緑の木陰に覆われた姿も、ただそのようにあることだけが真実と言わんばかりの場所でした。何度も足をはこんだけれど人がいたことは一度もなく、かといって無人の公園にありがちな不気味さなんて全く持ち合わせていない、とても澄んだ場所。あしたまた来ようと思って来てみたらどこにもなかった、そういうお話が実際に起こりそうな場所でした。

 もうひとつは、2年半暮らした下宿の部屋の窓辺です。四畳半の小さい部屋は、北向きにもかかわらずなぜかとても明るく、均一な光がいつもありました。その窓辺でハーブを育てたりしてるうちに、そこにはどんどん植物が増えていきました。同時に、どっからか拾ってきたものたちも加わって、その窓の一角は私にとってとても心地よい散らかりかたをした、なにひとつ動かせない場所になっていきました。四畳半の部屋にはちょっと大きいくらいの窓は、いつもすぐに散らかっていく私の部屋のなかで、いつもそのままの安定した空間を保っていました。

 引っ越しのとき、ゆっくり感傷に浸る余裕もなく片付けてしまったけど、かえってそんなあっけなさがその庭の存在を私の記憶の中で生かし続けるきっかけになりました。

 今暮らしている家は、今までにない広い空間です。最初はちっとも馴染めなかったこの家も、拾い物好きの私が道端から仕入れて来るがらくたたちで、ゆっくりとですが着実に心地いい散らかりかたをして来ました。ちゃんと庭になってきた。

 思えばいつもいい庭に囲まれていました。

これもわたしの才能のひとつなんだと思ったら、ちょっと横柄かもしれません。でも、自分に対して敏感でいられたら庭は必ず存在してくれる。庭はそういう位置にあるものなのです。

 未だ見ぬ収穫の日、適切な距離、虫の克服

text/タケムラナオヤ

  園芸は愛に始まり愛に終わる。しかし、その愛が足りないのか、愛の注ぎ方が中途半端なのか。なんぼ収穫の時期や開花の時期がこようとダメなものはダメなのだ。

 今を遡ること一年前の春、とある友人に請われてアトリエの庭掃除と庭づくりを共同でやることになった。それで意気揚々と土から種、手袋から草引き鎌、はては石灰に至るまでを買い込んで30平米はあろう庭を隅々まで友人と掘り返し、種を蒔き、そして苗を植え込んだ。

 それからは成長が気になって毎日のように庭に通い続ける。芽が続々と息吹く。雑草は発見次第根引き、成長が悪ければ肥料をやり、成長の度合いを写真に収め・・・。この上ない愛情を庭の草花たちに注いだつもりだ。至福の時間は休憩時間の茶とタバコ。心地よい風を浴びながら、もういつの間にか園芸家12ヶ月の気分。

 やがて、梅雨。冷房のないアトリエは牢獄と化し、至福の時間はどこかへ逝った。木造築30年のアトリエはゴキちゃんたちの巣になった。草花たちは膨らみに膨らんだ妄想に比べると控えめにしか伸びず、庭はやがて一面の雑草に覆われた。

 過剰な愛は続かない。些細なことで突然終わる。たかが梅雨、たかがゴキブリ。しかしそんなたかがが庭から足を遠ざける。

 自分はいつもそうだ。4年前の幸せな春は確か枝豆を育てようと張り切っていた。そして夏。大量発生した羽虫のためにあれだけ夢見た枝豆ご飯にありつくことはできなかった。緑の仕事をしているのに、草花の名前を覚えられない。第一育てきれたことすらない。こんなんでいいのかと自問自答する。他の園芸家たちをみていると、彼らは本当に心根から草花を愛している。自分は種を蒔くことはできても、それを育ててゆく術を知らない。過剰に愛を注ぎすぎて枯らしていく。

 彼らはいつだって庭に一歩距離を置く。自分はその距離の置き方が分からない。いつだってはまってしまう。そして、大体の場合虫という天敵に抗しきることができずに撤退し、育てきれなかった悔辱の思いだけが傷跡となって残る。

 いつになったら自分は収穫の日を迎えることができるのだろうか。結局、虫を倒せということか? 誰か、教えてくれ。

 NO MUSIC NO LIFE

text/イリエタカノリ

  僕は現在六畳一間の部屋に住み、観葉植物を飼っています。サボテンとパキラと幸福の木です。植物に音楽を聞かすとよいなどとよく耳にしますが、ほんまでしょうか?

 植物に耳なんてついてないのに音楽きけんのか!! と、ちと疑問に思い調べたところ、欧州研究大学教授のジョエル・ステルンナイメールという人が生き物に対する音楽の効果を説明しているではありませんか!「タンパク質の合成を後成的に制御する方法」*1生き物に対する音楽の効果。小難しい話ですが、そのうち役に立つかもしれないので小耳に挟んでおいてください。

 生き物の代謝組織を実際に作り上げるための柱となっているのは20種類のアミノ酸で、それらが集まってタンパク質ができます。その時放射される波動が、《スケーリング波動》と呼ばれる量子的な波動であり、こういった波動の振動数を例えば音符に変換すると人間の耳で聞けるようになるのだそうです。つまり、アミノ酸の結合の複雑さに応じて、数十から数百という一連の音符を得ることができるようになるということで、これらのアミノ酸から放射されるスケーリング波動を《解読》し、それを音に置き換えれば、生体に対してそのタンパク質の合成を促進させる作用を及ぼすことができるのだそうです*2。「植物が適切なメロディーを“聴く”と、その音波が“マイクロフォンのように”電磁波に変換されそれが《スケーリング波動》の源になります。そしてその植物は、このメロディーに対応するタンパク質を生産し始めるのです」。しかし、あるタンパク質に対応する音符列がわかると、そのタンパク質の合成を促進することができるわけですが、逆にその合成を抑制する、つまり合成にブレーキをかけることもできます。簡単に説明すると、合成促進のメロディが《低音》だとすれば、合成抑制のメロディは《高音》になる。それぞれのアミノ酸には、合成促進と合成抑制に対応する高さの音があるので、各たんぱく質について、2通りの解読法、つまり2通りのメロディがあるのだそうです。

 と言うことなのですが、そんなことは関係なく、私は大音量でエリック・サティを聞かせています。この音楽が影響してかしなくてか*3、三株あった観葉植物の二株はことこごとく枯れ果ててしまいました。でも、葉っぱの生い茂ったサボテン「ラメリー」だけは元気に生きています。

参考文献

*1「スケール共鳴によりタンパク質の生合成を後成的に制御する方法」、ジョエル・ステルンナイメール、フランス国特許出願、1992年、第92-06765号

*2「タンパク質の合成を後成的に制御する方法、パン作りの実験」、ペドロ・フェランディーズ、『Industries des cereales』、第85号、1993年11-12月号

*3 http://www.bekkoame.ne.jp/~dr.fuk/MusicPlantsNC.html<音楽と植物>エリック・ボニー著「ヌーヴェル・クレ」1997年夏第14号

 みどりのゆびが、体内時計のネジをまく

text/AMIKO

  ここのところ、巷ではガーデニングブームのようです。いまさらのように、土いじりにスポットが当たるのはどうしてかしら? 箱庭遊びというのが、むかしはコマ回しや凧揚げとともにあったそうです。庭づくり・土いじりは、とても奥の深い遊びですが、いつのころからかこういう遊びも少なくなり、いまや箱庭と聞くと、心理学の箱庭療法を連想する人の方が多いかもしれませんね。

 身近な土いじりとして、台所やベランダに、料理につかったねぎやパセリなどを植えておられる方、かなりの数いらっしゃるのではないでしょうか? 栽培の歴史は人間の食欲が生み出したもの。園芸に長けた人を指すことばで、「みどりのゆび」というのがありますが、私はやっぱり花より団子で、鑑賞する植物を育てるよりも食い気がまさってしまいます。食べられるモノを作ってみるというのは、結構基本を押さえていて核心にせまった行為なんですよ。まぁ試してみてください。植物に対する価値観がかわります。いままで使っていた液体肥料よりも、鶏糞を播いてみたくなったり・・・。あの臭さも、また香ぐわしいかな。土との距離がぐ〜んと縮まるのが、食物栽培の魅力です。

 暖かくなって咲き狂う桜。日本で花といえば桜ですが、その語源は(サは前置詞・クラは座、天皇や君子の座る場所)の意だという説も。古くは桜の開花を見て、田植えや、その年の収穫を占い、神事を行ったとか。農耕には欠かせない花で、米主食の人々にとっては特別な存在だったことが伝わってくるようです。毎年花見をあんなに盛大にやるのも、うなずける気がしませんか?

 土との距離が縮まったところで、こんどは頭をあげてみてください。きっと日の出日の入の時間、太陽が気になってきます。それにお天気もね。みどりのゆびが、あなたの時計のネジをキリキリと巻いて、忘れていた体内時計を動かしはじめている証拠です。

 こうなったら土いじりはただの趣味ではなくなりますよ。土いじりは自然の運行と自らを結びつける歳時記であり、テレビやネットよりもリアルで重要な情報を提供してくれるツールにもなるのです。

 室内ガーデニングや、かわいい植木鉢で緑を愛でるのもいいけれど、たまには指先を大地に触れて地球をなでなでしてみてはいかが? みどりのゆびは、あなたの中で眠っている原始的な感覚を呼び覚ましてくれるはずです。

AMIKO HIROTA ... 現代のメディシンマンを夢見て、今春国産みの島へ巫女修行へ?!
 

 あなたとお庭の素敵なお話

text/みなさま

必殺! ■ 夏の夜、懐中電灯を握り、親父のぶかぶかのつっかけを履いて庭に出る。今から20年前、僕がまだ小学生の頃だ。植木の間を丁寧に一つずつ照らしてまわるが、それが居るところはいつも同じ。そしてそれは昼間には考えられない程体が伸び切っている。僕はそれを摘み上げ、コンクリートに投げつける。音はない。そして出来るだけ何も考えずにつっかけを上に置き、地面になすりつけるように足を後ろに蹴り上げる。心の中で「安らかにお眠りください」と唱える。嫌な感触が足と奥歯に残る。これが日課だった・・・(かこりん)

大家の庭 ■ 大家さんの畑を手伝うこと二年。一年目に大家さんが唐辛子を、僕がミントを植えた。二年目、唐辛子はミントに占領され、消滅した。ある日、出かけようとその畑の前を通ると、大家さんは無言で、怒った顔をしてミントを引っこ抜いていた。僕はその時、大家さんに声をかけられなかった。(吉川カズ)

箱の中身 ■ いつも園芸用土は発泡スチロールの箱に入れている。植え替えの時に余った土などもそこにストックする。だから発芽しきれなかった種も土と一緒にストックされてしまうらしく、久しぶりに箱のフタを開けると、白くひょろ長いもやし状の、何だかわからない芽がもじゃもじゃ生えていたりして恐怖だ。(アツ)

死闘 ■ 今日、庭でめじろがけんかをしていました。遊んでいるのかと思いきや、馬乗りになって目をつつかれているじゃありませんか。可哀想に、縄張り争いか、餌の奪い合いか、順位決定か。。。自然は厳しい。我が家の庭もちょっとした野生の王国だと思いました。(あみこ)

九条葱の始末 ■ いま育てているのは九条葱だ。すくすくと伸びていく速さは葱ならではである。あと5センチ伸びたらラーメンに入れよう。みそ汁に入れよう。湯豆腐にのせよう。そう想いながら日に日に成長していく葱をプチンと切れないでいる。(カオリ)

庭のおもいで ■ それまで実家の木々は生い茂り、他人に「化け物がでる」といわれる程ゴージャスな雑木林をつくっていた。この度、とある寺の裏に引っ越す事となったのだが、そこではボンボンいろんな物が燃やされ、移植した木々は見事に枯れちまった。寺よ、たき火は止めてください。(チホ)

食物 ■ クラスに一人や二人、机に給食のパンを隠し持っている者がいた。パンはそのうち件の下等植物の苗床となるが、大抵は大掃除の慌ただしいさ中にもみ消されるものだ。しかし僕はそんな世話のかからない植物の大成した姿を見たいがために、クラス中の机をあさった。だが、それは世話の焼き過ぎだと女子に咎められることに。(モモリ)

淡き想い ■ ある日ふと見たベランダに、散らかした憶えのない何かの種がぱらぱら落ちていた。枯らしてしまったマリーゴールドの鉢にさっそく蒔いて、水をアゲアゲ1週間。隣の住人のインコちゃんの餌と気づいた僕のショックったらもう。(ヨウジロウ)

謎の種 ■ ラベンダーの種を蒔いた。あまりにたくさん発芽したので、いちばん元気そうなのを残して間引いた。ぐんぐん育ったが一向にラベンダーの香りがしない。?と思いながらも育て続けて1年半、ようやくそれがラベンダーじゃないことに気づいた。おまけに台風で転げて枯れた。あれは何だったんだろう。(アツ)

 

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