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タケムラの独り言

なんだか大してうまくもないのに、文章を書くのは大好きなのだ。
自分の書く文章はだいたいにして堅めで、自分にまつわることぐらいしか題材にならない悪癖がある。
このなかでもっとも個人的に印象的なのは、やはり「上海列車事故の記憶」。あれから15年にもなるが、やはり未だにふとあの日のことを思うと胸が痛む。「桜の頃」はその続編として書いたもの。

ニワカの世界

48番目はいつきたる?

南国土佐まほろば紀行

桜の頃

ラブレターを書け!

上海列車事故の記憶

死の意識

ドラえもんへの雑考

CHIRP 1号(2001.8)所収
CHIRPとは、高知市内限定100部のタケムラだけが執筆するフリーペーパー。意外に好評だったが、続くことはなかったのだ。

 フリーペーパーというのは病なのだ。勝手に出して、勝手に置いて、勝手に誰かが読んでいる。だから、一度それに手を染めた者は、多くが何度も何度も手を変え品を変えて出し続ける(このペーパーだって私が係わったものとしては5つめだ)。

 こんなペーパーづくりに限らず、最近はMacやらWinが普及したこともあって「ニワカ」デザイナーやアーティストが跳梁跋扈している。つくることがまるで解禁されたかのように、多くの人々がものづくりに勤しむ時代になってしまったのだ。

 無論、自分も極めてニワカの者なのだが、それにしても、である。果たして芸大の意味は今こんな時代にあるのか?と10年前にも思ったがますます思わざるを得なくなる。そもそも学校なんてものは何も教えてくれない浪費の館だが、それにしてもそれでは今なんでこうも誰もがつくって売って何とかなっているのか、心の底から摩訶不思議だ。

 おそらく、こういうことになった一因には、情報がネットの海を自由に飛び交う時代になって、国境も何もかもの「境界」がなくなった時代になって、誰もが可能性を感じることができるような時代、それまで秘匿されていた心の底を自由に表現することが許される時代になったからだ。

 それはそれで素晴らしい時代、面白い時代にはなったんだと思う。それに、ニワカの人々のつくるあーとは、美術手帖に載っているいるような小難しいアートと違って、言葉なんていらない、どことなく力のある作品が多いのも事実だ。

 でも、その一方で思うことは、広がりを見せつつも全体の層は遙かに薄くなりつつあるのでは? ということ。ニワカあーとの多くがどこかで見たことがある、何かに似ている。何も響かない。

 情報の海では、情報は自由に選択できる。その海が広ければ広いほど、その海を見渡すことはできない。また、見渡さない自由だってあるだろう。だが、ニワカアーティストは、そんな海があることを知らないのかも知れない。

 美大にいた頃、友達とよく論争になったことがある。

「私は、私のオリジナルを守るために、あえて他を知らない」

 そのオリジナルは、あくまで狭い世界でのオリジナルだ。「オリジナル」なんてものはもうほとんど存在しない。でも、海のほんの一部しか知らないがために自分が「オリジナル」だと信じることができる。ニワカアーティストの多くが陥っているのは、ちょうどこの部分だ。

 ニワカはニワカ。そこから一歩踏み出さなければ、ただのニワカ。狭い海にいきる生物同志、狭い世界で食物連鎖をし続ける。ただ、この世界は居心地がいい。だから、私も含めて、多くのニワカが生き続けている。

48番目はいつ来たる?

CHIRP 1号(2001.8)所収

 よく旅をする。

 といってもまだ海外未経験なのだが、そのかわり国内はかなりの土地を歩いてまわった。1都1道2府36県。あと残るは東北と沖縄くらいで、できれば海外旅行の誘惑なんかに負けずにまずは国内制覇をしてしまいたい。一昨年取得したパスポートも10年だし。

 で、なんでこんなに国内旅行にこだわってきたか。それは、ただ単にウンに恵まれなかったからである。初の旅行になるはずだった中国旅行は事故の影響でボツり、その次に企画した台湾旅行は今いる会社の内定通知が遅すぎて時間がなくなった。で、行く気が萎えた。

 第二に、とりあえず楽そうだからである。どこでも日本語通じるし、無理して英語だの何だのしゃべらないでいいからである。

 第三に、あんまりみんな行っていないからである。たとえば奥飛騨だの知床だなんてのは、ゲンダイニッポンではもしかするとハワイや香港よりも行ったことがない人の方が多いんじゃないかって思ってたりする。というか、もしかすると行く価値なんてないと思われていたりするかも知れない。だから、面白い。

 第四に、とりあえずそこまで行きたい機運が盛り上がってないからである。なんかまだ友達の海外話でも聞いてる程度で十分事足りる。本もテレビもあるし。見ないと分からないよ〜とか言われそうだが、それは流氷や白川郷だって同じである。海外派に国内なんていつでも行けるという余裕があるように、自分にはパリなんていつでも行けるという余裕がある。

 第五に、ここまで出遅れたなら徹底せよという使命感である。まずは47都道府県をまわれと。しかし、残された東北・沖縄旅行をしようとすれば多分ユーロ旅行を楽しめるはず。なんかもったいないけどもう意地である。

 第六に、勉強が嫌いだからである。せっかくよその國に行くのであればしっかりゆっくり見ておきたい。写真だっていっぱい撮りたいし、観光ルートなんてすっ飛ばして町中を歩き回りたい。できればチャリもほしいくらいだ。・・・だったら言葉もちょっとは覚えたい。でも、それはめんどくさい。

 これらの理由をまとめていくと、たぶん47都道府県を回らないとお外に行くきっかけが生まれそうにない。基本的に追い込まれて初めて力を発揮できるような私のような人間には、たぶんそうゆうことなのだ。

 ちなみに、お外で行きたいところベスト5都市は、上海、台北、平壌、パリ、ベルリン。おそらく、お外への門戸が開かれた時、誰よりもかなりはまって飛び回りそうな予感がする。だって、もう国内は行かないでも事足りてしいまってますから。でも、それが何年後なのかは、いかに早く東北旅行を「やっつける」かにかかっているのだ。

南国土佐まほろば紀行

Idletalk第6号(1999.11)所収

 いつまでも竜馬竜馬じゃあるまいに。
 ついこないだ、高知に竜馬郵便局ができた。まあ消印が「竜馬」になるんだろうから、ある意味では楽しいし面白いことなのかも知れない。
 にしてもまた竜馬か。そんな感じがする。県外から高知へやってきた人は、やっぱり市内は竜馬だらけだねーという。竜馬像は確かにあちこちにあるし、竜馬っていう蒲鉾の広告がばーんと入ったパーキングタワーも目抜き通りに聳えていたりする。鹿児島や山口といった維新県がどうなっているかはよく知らないが、それにしても高知は異常に竜馬が大好きだ。
 こないだ市役所に行っていたら、仮にも30万の中核市の代表である松尾市長が竜馬のコスプレ姿で玄関へ出てきた。おいおいこんな平日から高知市は大丈夫かと思ったら、玄関前に控える山口からやってきたらしい奇兵隊コスプレ集団が空砲をどーんと撃ってこれを出迎えた。空砲は市役所の窓を揺らし、こだまとなって官庁街に鳴り響いた。
 大政奉還から戊辰戦争にいたる幕末維新の時代とは、薩長土肥という地方vs中央=江戸幕府、もしくは西南雄藩(西日本)vs奥羽越列藩同盟(東日本)の戦いの時代であり、いずれも今ならどう考えても勝ちようのない側が圧勝を収めたしたという点でセンセーショナルだった。また、日本最後の国内戦争であり、最後の地方対地方の意地がぶつかりあった時でもあった。
 しかし、この戦争を最後に、地方のアイデンティティは江戸改め東京発の文化へと収斂され、地方独自の文化思想を育むことよりも中央に一歩でも近づくことが求められるようになった。かくして、残ったアイデンティティは幕末維新。京都が1100年の平安京であったことから逃れられぬように、少なくともあの時代に輝いた国々はそこから逃れ切れてはいないように思える。
 いつまでもこのままじゃいけない・・・そんな中で東京の椎名誠や野田正佑に見いだしてもらった四万十川、札幌の大学生に見いだしてもらったよさこい祭などが高知の新しいアイデンティティとして息づきはじめた。
 なのに竜馬郵便局。東京のニュースは、これをなんだかずいぶんと大きく取り上げた。とりあえず昨秋の高知水没よりは大きく取り上げられた。舞い上がった郵便局長の姿も全国に晒された。その姿を見たとき、竜馬から脱さないことには、他のアイデンティティも死んでしまうと思った。

桜の頃

Idletalk第5号(1999.5)所収

 あれから11年。彼らがのった列車が上海で事故に遭ってからもう11年だ。

 自分はあの列車にのっていたわけではないし、知っている人も失礼な言い方だがそんなにたくさん亡くなったわけではない。でも、未だに3月24日が近づくと突然どきりとする。これこそがトラウマというやつなんだろうか、たとえばニュース速報の音、彼らの棺が並んだ空港の倉庫、3・2・4の数列、高校の校舎、テレビカメラの放列、上海という言葉の響き。いまだに逃れることのできない傷口がそれらを見聞きすると疼きだす。

 別にあの事故を背負っているわけでもなく、そもそも背負う必要もなく、でも忘れることのできない恐怖の日々がいきなり蘇る。はじめて死ぬということを直接間接に見たときだった。あまりにもその死のカタチはいびつすぎて、あまりにも強烈な時間が流れすぎて、消去できない日々になってしまった。だから、もう忘れようとすることはやめた。

 高校の時の友人なんてもう誰もつながりがなくなったのに、あの高校で育ったことすら後悔するほど嫌いな学校なのに、それでもあの事故だけは残り続ける。桜が咲き出すと、毎年こんなことを考える。もう11回も繰り返して。

ラブレターを書け!

97年10月、友の会会員向けの内部資料である「アイドルトーク原稿執筆要領」用に書いたもの。結局執筆要領は発行されず、そのまま墓場へ

 例えば、夜。あなたが思いの丈をあの人に伝えるべく手紙をしたためようとします。翌朝読み直すと、赤面ものの「これ誰が書いたんだ」状態の内容だったりします。これではいかんと思い、また次の日に書き直します。でも、何から書き始めるべきなのか、どのようにしてこの思いを伝えたらいいのか、あなたは迷います。

 妙に遠回しにしても分かってくれない鈍い人かも知れません。もしかすると、あなたの気持ちに気が付いているのに、警戒して「分からないふり」をしているだけかも知れません。だからといって、いきなり好きですなんて書くわけにもいきません。もっと効果的に、この気持ちをずばり伝えることのできる言葉を考えたいのです。

 手紙を書くというのは難しい! その中でもラブレターなんていうのは最も難しい部類の手紙になるんではないでしょうか。誰でも一度は書いたり、書きそうになったことがあるであろうラブレター。でも、このラブレターにこそ、「文章を書く」時に最も大事にしたい要素が詰め込まれています。

 ラブレターで一番伝えたいこと。それは、こうやって書いているのも恥ずかしいですが、「あなたが好きです」という気持ちですね、もちろん。あなたはこのことを言いたいがために若気の至りで手紙を書いてしまったわけです。

 あなたは、まずはどうでもいい身近な話を書き始めます。「△△先生の講義はつまらない@」とかホントにどうでも良さそうな話です。ここばっかり膨らみすぎて、一番大事な「好き」をどうやっても書くに至れないということも多いでしょうが、2人の共通の話題から入るというのは、読み手を「この手紙の世界に引き込む」ための序章なのです。

 次に、もう少しあなた側の考えや気持ちを書くべく、「いつも相手してくれてありがとうA」なんていう言葉も書いてみます。実はここまで持っていくのが難しいんですね。@からAにかけて、いかに自然にもっていくか。この@Aの間が急に変わると、それだけで何を言いたいかも分かってしまいます。普通の手紙でも、時候の挨拶を終わって本題に入るという部分が難しいですし、普通の文章を書いていても、大体がここで止まってボツになってしまいます。

 Aでは「何故結論に至ることになったのか」という前振りをしたいわけです。つまり、あとは本題の「好きです」に向けてその布石をしきまくっていくだけなんですから結構楽なもんです。

 そして、いよいよこの手紙を書いた理由である「あなたのこと好きになってしまいましたB」です。最大の盛り上がりのこの場面、筆に力も入ります。でも、大体のラブレターがここに力点が置かれ過ぎて、何だか相手の気持ちを引かせてしまうことになるわけです。バランスが大事なわけです。普通の文章でも、言いたいこと尽くしの文章というのは読んでいて疲れます。新聞を読んでいて疲れるのはそのせいでしょうか。

 最後は「お返事お待ちしますC」ですよ、もちろん。これは、相手への問題提起であり、Bよりもあなたにとっては大事かも知れません。好きと言われるか、嫌いと言われるか。あなたは、これを知りたいがために手紙を書いたのです。

 かように、文章を書くということとは「あなたの気持ちを他人に知ってもらう」ためである部分が多いのです。あなたの考え方をはっきりと知ってもらわないことには、Cに対していいお返事は望めませんし、何よりただの一つのリアクションすら期待できません。

 「一番何が言いたいのか」ということと、「どうしたら言いたいことを理解してもらえるのか」ということ。これだけを常に考えて文章を書けば、おのずとあなたの気持ちが伝わる文章が書けるはずです。

 

上海列車事故の記憶

Camera Talk第5号(1994.6)所収

 その一週間前、私は高知学芸中を卒業した。その卒業式で、校長の佐野先生は学芸創立30周年の記念として、今高校の修学旅行団が中国に行っておりますと話をしていた。佐野校長は朝礼だとか集会がある度に平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」という言葉から話を始め、最後は中国の悠久たる大地がどうのこうのとか、蘇州のどこそこはこうだとかで話を終える、とにかく中国好きな人だった。その日はまた話が異様に長く、かなりの人が眠りへと誘われていた。学芸は私立の中高一貫教育校であり、ついでに予備校まで作ってしまうような、いわゆる進学校の類いに入るものである。また、殊更にスポーツが強いとか東大に何十人も合格する訳でも無い、高知県外の人なら誰も知らないような平凡な、そして平和な進学校でしかなかった。

 卒業式から一週間後、夕飯も終えた七時過ぎ、ニュース速報が入った。飛行機でもまた墜ちたかなと思いつつそれを見ると、高知県の私立高校の修学旅行団を乗せた列車が上海郊外にて前から来た列車と正面衝突した模様とのテロップが出ていた。県内の高校で中国に修学旅行団を出しているのは明徳義塾と学芸だけで、随分前に明徳が中国に出発という記事が出ていた事を覚えていた事と、卒業式の校長の話からもそれが学芸である事はすぐに理解できた。地元テレビ局に勤めている父はすぐに会社に確認の電話を入れ始め、私もラジオを点けて情報の入るのを待った。暫くして、学校名は高知学芸高校との速報が流れた。親戚からもまだ高校には入ってなかったよなという確認の電話が鳴り始め、友達との電話ではまあ大した事は無いだろうという話になった。

 情報はそれ以来、途切れてしまった。しかし、その間にもテレビ局は続々と学芸の校舎を映し始めていた。あの校舎に局の配線が何本と走り、あの教室に旅行団の生徒たちの親が集まる姿が映し出される。少しずつ自分の学校が突如置かれた状況が理解できるようになってきた。少なくとも学芸は大事故に巻き込まれたようだ。11時のニュースからは事故の全貌が明らかになりはじめた。現場は単線の信号所、中国では鉄道事故が最近多発していたこと、そして死者がでた模様だと。しかし新華社からの情報はまばらで、二名とか十何名とか全く状況が読めない。旅行団参加者の名簿が発表されたりするうち、108名の生存者がホテルで飯を食べている映像が入り、2名の死者の名前が明らかになる。事故現場の映像も流された。傍観者としてでしか居られない私の目に映るのは、まず死者は2名で済むようなものでは無いということと、生存の生徒たちの親とまだ不明の生徒の親たちの表情の差異であった。

 翌朝、母が私を起こしに来るなり、「川添先生が、亡くなったみたいよ」と言った。川添先生は剣道で名を馳せた人であった。体は大きく、校内で歩いてる時はいつもハワイ土産っぽい柄の短パンをはいていた。剣道部の顧問であり、私が中一の時仮入部はしたもののすぐやめようとした際、随分と叱られた。しかし、校内でばったり会う時には口癖のように「元気でやりゆうかえ」とにこにこしながら聞かれた。その川添先生が死んだという。校内にはもう一人川添姓の先生が居るし、まだ解らないと言い聞かせたが、やはりあの川添先生であった。もはや、事故は大した事ない等と言っていられるような状況では無くなっていたのだ。 

 父が学芸の生徒名簿を貸してくれ、といった。何故だろうか、私はその時貸そうとしなかった。貸せるか、とすら思ったように記憶している。私は泣いて抵抗していた。父は局における旅行団参加者の確認作業のために名簿を貸してくれ、と言っている。確かに父にそれを貸した所で私が損をするとか、何かに使うようなあても無い。しかし、貸したくなかった。あの朝の食卓の情景は、未だ忘れられない。外は暗く、室内の電気が煌々としていた様に思う。テレビは学芸の風景と親たちの憔悴しきった顔、事故現場を流し続ける。今までに経験したことも無い動揺と無気力感が私の体を支配していた。父の名簿への固執は、父の義務の為の作業に思えてならなかった。それへの反発と、この動揺を停めて欲しい気持ちで、私は貸せなかったように今思う。結局貸したかどうかは、覚えていない。

 昼過ぎスーパーに飯を買いに行くと、号外が出ていた。その頃には死者は二十七名にまで増えていた。その中で知り合いの人は川添先生一人で、先輩で知っている人はいなかった。その晩だったか、生存の生徒が高知空港に帰って来た。校長、生徒代表、JTB職員による会見が空港ですぐさま行われた。まず始めにそれぞれの名前を言って下さい、と記者の一人が言い、校長の次に生徒代表が名前を言った。その途端、記者が「もっと大きな声で言って下さい!」と怒鳴った。一体何を考えているのだろうか。自分たちを何様だと思っているのだろうか。この日、同じ様な感じで生徒を迎える親たちと記者たちの間で幾つかのもめごとがあったという。俺たちが伝えてやっているんだ、といった風の傲慢な記者たちの態度には疑問を持たざるを得ない。その取材対象である人の感情や心理を全く無視して取材を行った所で、一体どうして真実を伝えることが出来ようか。視聴者の受けを気にし、特ダネを追い求める余りマスコミが忘れ去ったものは大きい。

 そして27日、二十七人の遺体が高知空港へと着いた。何百人もの人が空港に仮設された安置所に並ぶ棺に手を合わせた。ひときわ大きな棺は川添先生である。

 29日、私はかねてより予定していた島根の祖父母の家に向かった。行くか行くまいか、ずっと迷っていたが、このまま高知にいて事故のニュース漬けになっていては気が狂いそうだった。ただひたすら頭の中を上海とか3月24日とか二十七名等といった言葉が駆け巡り、他の思考が居る場も無かったのだ。島根に行って、少し高知から、学芸から離れたかった。島根では、祖母と鳥取砂丘に行った。祖父からは戦争や会社時代に行った中国の話を聞いた。楽ではあったが、どうしても空しさは消えない。何をやっても、何処へ行っても、離れないのだ。何処へ行っても雑誌に、テレビに学芸という字が踊っている。何処へ行っても忘れることが出来ないのだ。

 4月8日、私は学芸高校に入学した。別に入学と言っても、単に先生と教室が変わるだけの話で、何の感動も無い。違うのはテレビカメラに囲まれ、佐野校長の長い中国話が事故のことばかりになった事だった。そして昨年度の皆勤、精勤の生徒の名前が発表された。その中には亡くなった人の名前が幾つもあり、親たちの席からはすすり泣きの声が漏れた。それはとても入学式の風景と言えるものでは無かった。私はF組に入ったのだが、オリエンテーションで担任が元々このクラスの担任予定は川添先生だったという。もう何から何まで列車事故が染み付いている。

 5月29日、県と学校による合同慰霊式が行われた。二十七の遺影が並び、学芸の校章が大きな花輪となり、天皇からの花までもが両脇に置かれていた。一人一人の亡くなった生徒への親からの言葉を読んでいたアナウンサーがその中途に泣き出した。大きな県民体育館全体が重い空気で充満していた。

 6月7日、美術の時間中に資料を図書館で探していた時、突然臨時放送が入った。校長が静かな口調で悲しいことを伝えねばなりません、と言った。ずっと重体であった生徒が亡くなったという。上海とか中国という言葉に無意識の状態においてもその人は泣いて首を振ったという。事故で足を失いながらも、体調は快方に向かっていたというだけに心が痛む。一緒にいた友人と黙祷をした。 事故に遭った学年の教室はいつまでも席の後ろが空いていた。教室の脇には遺影が花とともに飾られ、新しくメモリアルルームという部屋もつくられた。そこには旅行の途中の集合写真や千羽鶴が置かれ、いつでも開放されている。学校の敷地の一隅には慰霊碑が建てられた。

 事故から六年、記憶はどんどん薄れてゆく。忘れてはいけない、忘れてはいけないと毎日一度はいつのまにかあの事故の、あの日の情景を思い出している。それは全く無意識のうちに、ふっと気が付いたら頭の中を流れているという感じだ。しかし、人間の脳というものは都合良く出来たもので、少しづつ何かを忘れていっている気がする。こうして文章にしてみると、それが本当によく分かる。3月24日の速報の瞬間から、どんどん記憶が希薄になっていくのだ。

 今も4遺族が学芸と裁判で係争中である。学芸側が旅行行程の下見をしていなかった事や、事故後の遺族に対する誠意の欠如など、金銭でなく心の問題を争点に、高知地裁で口頭弁論を行っている。まだ、事故は終わっていないのだ。

 デジタルの時計をふと見たら、何故か3・2・4の配列に出くわす事が多い。ただ他の瞬間のそれを覚えていないだけなのだろうか。3月24日が近くなるにつれてあの事故の事ばかりが気になってしようがない。そして、3月24日になると何も考えられなくなる。事故のことばかりが頭を駆け巡る。そして、必ず黙祷する。24日を過ぎると、ほっとする。そして、そこからまた記憶が薄れてゆく。忘れたくない、忘れたくもない。でも、忘れてしまう。ホントに都合のいい、どうでもいいような事ばかり入れて大事な事を忘れる頭である。でも、やっぱりこれからもこれを繰り返すに違いない。そうこうしているうちに、今年も24日が過ぎてしまった。

◆九四年秋、高知地裁で上海列車事故の判決が下された。学芸高校側の下見の不十分を厳しく批判したうえで、遺族側(途中一遺族が訴訟取り下げ)の損害賠償請求を「学校側の事故の予見は不可能だった」として棄却した。遺族側は控訴を見送り、裁判は終了した。

死の意識

94年、あてどもなく殴り書きした幻の文章

 上海列車事故から六年が経った。その間、私は学芸高を卒業し、大学生となって今に至っている。あの事故は、私の死生観を一変させるに十分であった。それまで、私にとって死は遠く、そのイメージも薄いものでしかなかった。しかし、あの日、八八年三月二四日以来、いつも死の隣に生が存在することが当然の真理となった。死は遠い。しかし、死を考える時、いつでも死と生は近くなる。死を意識して生きている訳ではない。それは生を意識している事にほかならない。死は生の断絶である。生は、死の単なる先送りに過ぎないのかも知れない。

 あの日から今日まで、人を失いゆく中で死はますます近くなり、死よりも生の断絶を恐れるようになった。医者であった祖父の兄は、自らを自らの手で診察し、その結果を記録していた。その記録には、自分の病名が記され、その死までもが予測されていたという。危篤と聞いて行ったときには、黄疸で人の気色では無かった。その生命は酸素吸入器でかろうじて維持されていたが、祖父の楽にしてあげようという言葉でそれは停められた。医者の一族であり、まわりを取り囲む人々は、皆医者であった。その一年程前に、元気な姿で最後に会った時には、やけにこずかいを渡され、妙な困惑を抱いた事を覚えている。

 祖母は癌であった。転移を防ぐため左足を切断し、子の居る神奈川へ住み慣れた島根から越して半年あっただろうか。その神奈川へ見舞いに初めて行ったとき、今になればもう見れぬ私達の姿を目に焼き付けようとしていたのだろうか、目を合わす事にためらいを覚えるほど、その眼は鋭いものだった。日々体力は減退し、時折走るらしい激痛に苦しむ姿は、見て居られるようなものでは無かった。苦しみ始める迄、何を会話したかは覚えていないが、その日のその会話が、最後だった。同じ日、その少し後、父や妹と母が見舞いから帰る時には、普段ならベッドからバイバイと言って別れる所を、エレベーターまで送りに来て、さよならと言ったという。何度母が又来るから、じゃあねと言っても、さよならとしか祖母は言わなかった。その晩、祖母は死んだ。祖父、子供に孫まで、全員に囲まれて死んだ。ある意味で、幸せな死だった。だが、未だその死は現実化していない。毎年夏に必ず行った祖父と祖母の家は今はもう無い。しかし、祖母が死んでから、島根には一度も行っていない。だからだろうか、未だに祖母が島根に居るような感じがする。

 友人の妹の死は突然だった。鑑別所も経験したというその妹は、ある夜知り合いとドライブに出かけ、港の岸壁で車の中で休んでいた時、何らかのミスで車ごと海に突っ込んだという。友人である兄は、その死の数時間前に「今日はいっつも遊びゆうがやき外には出なよ」と妹に言っていたという。妹もその言葉に納得し、随分長いこと二人で話をしていたらしい。しかし、何故か外へ出た。妹の死の一年程前、その兄と話していた時、何かの易で今年は身内の誰かが死ぬと言われたと聞いていた。その日は冗談や、けんどホントに当たったら恐いにゃあ等と笑っていたのを覚えている。今は連絡もしていない。何度か会う予定ではいたが、都合が許さなかった。

 死は私の周りに於いては何らかの形で本人なり他者なりが予測、または予告をしていたように思える。祖父の兄の記録、祖母の目、友人の妹の易。それはたまたまの事でしか無いのかも知れない。しかし、後となってはそんなたまたまが予測に見えて来る。上海列車事故の時も、事故の一週間程前に「死ぬってどういう事ながやろ?あんた、私が死んだら一体どうする?」という言葉を、死んでしまった人が言っていたという。偶然の、たまたまの言葉、普段にない言葉だからこそ、その言葉は記憶され、後々に死の予測となり得る。しかし、それは生きている私の為の勝手な、単なる死からの逃避、喪の作業としての死の解釈、消化に過ぎないのかも知れない。しかし、その作業こそが自らの生を再確認させ、死を日々無意識下の領域に置かせるのだ。

 

ドラえもんへの雑考ードラえもんの啓蒙するもの

Camera Talk第4号(1993.11)所収

 ドラえもんの最終話については、一時“のび太は植物人間で、ドラえもんはその夢の中での人物であった説”が流布され、巷間を騒がせた事があった。私はこの噂を聞き、本当に泣きそうになったものだが、実際には第6巻の「さようなら、ドラえもん」でドラえもんは終わっているのだ。その内容とは、次の通りである。
 ドラえもんが未来の都合で帰らなければなくなり、のび太は泣いて止めようとする。しかし、やっぱり帰らなければならない。2人は夜を明かして語り明かす(オバQも同じような終わり方をしている)。その途中、ドラえもんは感極まって泣き出し、家を飛び出していく。そして、それを追うのび太は、空き地の近くで夢遊状態のジャイアンと遭遇し、我に返ったジャイアンにボッコボコにされてしまう。しかし、のび太は諦めない。
 「君に負けてしまったら、ドラえもんが安心して帰れないんだ!!」
 ジャイアンは「知るか、そんなこと」とまるでドラえもんに何の恩もされていないような事をここで言うが、のび太はジャイアンが逃げるまで抵抗するのだ。そこに、ドラえもんがやって来る。そして、のび太はドラえもんに言う。
 「勝ったよ、ぼく。見たろ、ドラえもん。勝ったんだよ。僕一人で。もう安心して帰れるだろ、ドラえもん」。
 それがのび太とドラえもんとが交わした最後の言葉だった。ドラえもんはのび太を床に就かせ、朝と共に未来へと帰っていく。もう机の引き出しにタイムマシーンの入り口は無い。のび太はドラえもんに誓う。僕一人で、やってみるよ。のび太は強く、逞しく生きて行く事を誓ったのである。
 何度読んでも泣けて来る。しかも、第6巻の末尾にはドラえもんの道具事典も付いており、確かにドラえもんは終わった事を示している。第6巻には感動する話が非常に多い。「赤い靴の女の子」、「のび太のお嫁さん」がそれで、しかも、それらの話は最終話への伏線として、序章として展開されている事が分かりやすい程に分かる。それぞれ、[のび太の昔大好きだった“ノンちゃん”への慕情の終結]、[のび太がジャイ子では無く、静ちゃんと結婚する事になるという、のび太の将来の保証]が表現されているのだ。ここに[強く、逞しく成長したのび太]の具現である最終話が加わる事で、のび太の過去・現在・未来に「お話」としての終止符が打たれ、セワシがドラえもんをのび太の元に送り込んだ目的たる『のび太強化改造計画』が達成されたのだ。
 のび太はドラえもんの登場以降、その怠けぶりに拍車がかかるばかりであった。そのままに終わるのではドラえもんに与えられた目的、ひいては存在理由そのものが脅かされてしまうし、何の哲学もない漫画に成り果ててしまう。しかし、この3つのお話によって、ドラえもんはその存在理由と哲学を明解に我々の前に提示し、終わっていった。
 ・・・そう、このまま終わるべきだったのだ。ドラえもんは藤子不二雄 が没するまで終わるまい。のび太はドラえもんの道具に頼り、自分の力を信ずる事なく終わり、ドラえもんもその存在理由を一切証明する事なく、にである(映画版については、少し事情が違うようだが)。
 ドラえもんは第7巻の「帰ってきたドラえもん」であっけなく帰って来る。その内容は、以下の通りである。のび太は強くなっていなかった。ジャイアンとスネ夫に相変わらず苛められ、自閉にすらなってしまいそうな様子である。そんな時、のび太は“何か困った時には、この箱を開けるんだ”というドラえもんの言い残した言葉を思い出す。そこには、ウソ800という道具が入っていた。「君なんか生きていろ!」と言えば、その言われた相手は死んでしまう、という余りに怖い、言葉のアベコベクリーム的道具である。のび太は早速それを利用し、ジャイアンたちに仕返しするが、何か空しい。すると、ふっと思いつき、言う。
 「ドラえもんは帰って来ない」
  ・・・ドラえもんは、未来の都合で帰ってきても良いことになった等と言いながら、再び引き出しから戻って来た。
 第6巻の涙は何だったんだろう。以来、43巻にドラえもんは達し、藤子の代表作として今に至っている。だが、こんな安直な方法を再開にあたり執ってしまった事で、ドラえもんは世の子供達にのび太の逆説としての「強く、逞しく」ではなく、「便利な社会、ご都合主義」を啓蒙するだけの漫画に落ちぶれた事は、皮肉以外の何物でも無い。もっとも、ドラえもんにこんな穿った見方をする事なんて、意味がないのだが。 

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